―故・蜷川幸雄氏に貰った言ノ葉集ー
「」は台詞、『』は蜷川さんのダメ出し、■は伊木の補足。
○Prologue○
「弱法師」
作:三島由紀夫 演出:蜷川幸雄
本番:2000年10月27日(金)~11月5日(日)埼玉・彩の国さいたま芸術劇場
○稽古日:2000年10月21日埼玉・彩の国さいたま芸術劇場内場当たり中、主演・藤原竜也への稽古
一言目 『スタッフOK、みんなOK、竜也ボロボロ』
三島由紀夫→年齢を凄く気にする。彼にとって終末の光景は快楽で悦楽←出てない。
『りきみすぎてリアルな演技になってしまっている』
『イメージが分かっていない、分かっていても自分に強制してしまっているよ!』
『最高の緊張』がない。全体的に恐怖になってはいけない。
『終末の光景!最高の時!最高にエロティック!官能の表現!死を通したエロス!同じ間になるな!』
「みんな行きましたね」『悠々と』
「上手く追っ払ってやった」『得意げに、桜間さん(高橋惠子)にだけ態度が違うように!』ぶりっ子笑い(自分は綺麗だ)
「いいですか!」『強く!』
「空は火の子でいっぱい」『嬉しいんだよ!』
「影絵」『水に映ってんだよ!』
「世界はー」『地獄の中での静けさを出す為に無声音!無声音!』『竜也情景だよ!』
「ごらん!」『距離をだせ』
「この世の終わりを」『優しく』
『イメージを上手くつかんだ時の呼吸をつかんで覚えておけ!』
■この日の稽古は厳しかった。途中、木のイメージが出来ておらず稽古を中断して外まで見に行かせてた。
かなりのアジテーションだったが本番、全て出来ていて素晴らしい公演だった。
■※エチュード
蜷川カンパニーではレッスン等なく(当時)自分達で進んで『エチュード』と言われる戯曲のワンシーンを稽古し、本拠地ベニサン・ピット稽古場で蜷川さんに見せていた。
劇作の神髄を知る蜷川さんの駄目出しを、ここに記そうと思う。
○エチュード15『欲望という名の電車①』 作:テネシー・ウィリアムズ
『笑いの演技は呼吸ですることで表現は生理が勝手にしてくれる』
『しゃべる→呼吸を使い切る→生理』
『序盤のポーカーの描写=下層階級の日常』
『違う!ブランチはもっと神経質だから物の扱いの表現が重要なんだよ!!』
『激しい事は激しくいけって!』
『でも神経がただのノイズになっちゃダメ!』
『それじゃ映像のワンカットとれないよ!』
『セリフがうまくいってない時はセリフの論理だてをしろ!で、もし自分だったら?』
『寺島しのぶさんは語尾をあえてかけない、その結果この人何を考えてるのかという役作りになる』
『スーパーリアリズム!人間てのは何をするか分からない怖さをもっと!』
『倒置法のセリフは最初の意味を大切に!つなげてもいいんだから!』
『もったいない、言いにくい事をやる場面は演技の見せ場』
『スタン!仕事行った帰り、弁当の箱の扱い、ドアを開けっぱなしにするとか、何かしながら演技をまとめる』
『『私』がいなくなったら終わりだよ!』
■これは2002/5/4-30、渋谷・シアターコクーンで上演されている最中(前後?)にカンパニーのエチュードでやられたものです。
当時、大竹しのぶ:ブランチ・デュボワ、寺島しのぶ:ステラ・コワルスキー、堤真一:スタンリー・コワルスキーの演技は素晴らしく稽古場に毎日通っていました。演りたくなりますね、あれ観れば。って感じです。
①となっているのは観念的なダメだしと演技的な部分のダメだしを分けたかったのもありますが、画像のようにかなりの量があり(発掘もして)その一言一言が素晴らしいので当時のMDも掘り起こし時間をかけて間違いのないようにしたかったからです。
的確なダメだしは現在でも飛躍的に演技を伸ばす宝物ですね。感謝です。
〇エチュード選びの戯曲についての考察 by蜷川幸雄
『ダメな戯曲は何やったって駄目!皮肉的な演出しか出来なくなっちゃう』
『俳優はAがやったらこっちの方がいい、Bがやったらこっちが成立するっていう武器がなきゃ』
『テネシー(ウィリアムズ)とかはアメリカ特有のローカル色がないとダメ、地方出身の差も欲しいし。「令嬢ジュリー」は退廃の中男にひかれる物語だけど一緒、分かりにくい、俺達じゃ』
『アーノルドウェスカーの「調理場」、木村さんがよくやってるけど。色んな人がいる、アイルランド、ギリシャとかイギリス国内でも4つ位かな、わざと訛(なまり)を直さない地域性重視』
『選ぶのに(エチュード発表に)大切なのは自分の役が信じられるかどうか』
※『唐(十郎)、野田(秀樹)、読めばできる、いい音楽とキレイなセリフはいいがそれなしで成立しなければ駄目。バラしちゃうと俺は野田の言葉を普通名詞から固有名詞化したんだよ、「熱帯樹」のフランス古典演劇化のように。「パンドラの鐘」はそれで新しい評価を受けたんだ(嬉しそう)』
「」は戯曲名。
■コロナだけでなく演劇界全体が停滞する中、また、世間の〇〇ハラスメントなどの問題、勿論私自身の演劇活動の休止もありアップし続けるかどうか悩んだ2年半でした。悩み考え抜いた末、演劇界のみならずエンターテインメント界の未来に役立つ事は、今一度過去の宝箱を開け、本物の言葉を未来の演劇人に託す事と考え、更新に踏み切りました。
そして再開一発目には、蜷川さんからの、俳優にとって的確で重要なお言葉をいつものように当時の口調そのまま、載せさせていただきました。
改めて凄いな、蜷川さん。今の私を見たら「自分を許容するなよ伊木!」って怒られそうだ(笑)
○エチュード14『スターマン』 作:岩松了
『隠されているものは何か!何をどう読み取るかで岩松の特徴をおさえないと!』
『ズームアップ!カット割りがない!でも淡々と言っている戯曲。それが出来ないと岸田国士になっちゃう』
『大事なポイントを捕らえろって!役を説明できるポイントそこだろ!』
『岩松の戯曲はズレがあるんだよ!前の台詞が何行か後に反応したり突然前に戻ったり!だからリアクション掲示を細かくしていかないと!』
『役の見せどころ!その人じゃないと出来ない役のこだわり!独特のこだわり!』
『他人との関係から作っていくテクスト!』
『語尾に色を付けたり尻上がりで疑問形にしちゃだめ!意味が変わっちゃうじゃんか!』
■日本のチェーホフとも呼ばれる岩松作品。難しい戯曲を単刀直入に読み解き演出できるという事はどれだけ素晴らしい事か。マグマのような血が流れながらとても繊細に劇世界を創る蜷川さんはやっぱりプロフェッショナルだと再認識した稽古でした。
○エチュード13『九柱戯』 作:ボリフェルト
『語りと感情の違いを丁寧に!台詞の時に色を付けたり感情を過多し過ぎちゃダメ』
『客観と主観の違いだよ!』
『でも語り過ぎると情景が思い浮かばなくなってしまう』
『主観と客観の変わり目が重要なんだよ!感情を闇雲に乗せるとどこからが主観で何処からが客観かさっぱりになっちゃう!』
『主観と客観の往来だって!だから役に溺れちゃダメ!』
『時間経過がわからないよ!ある事柄についていつ慣れていったのか、そうでないのか、他にも!観客に分からす必要があるんだよ、例えば三島由紀夫はある意味のカタルシスがあるじゃん、結末が最後まで謎な部分も面白味の一つなんだから』
『一言で【客観】といっても役の中の人物が【客観】になるのか、役者本人が【客観】になるのかによってテクストの攻め方が変わってきちゃうんだ!』
『台詞だけでなく【状態】も表現しなきゃ!目が覚めた所の1から2秒で恐怖をわからせてくれればいい、で、そこからが【主観】!!』
■これをあまりアップしたくなかったのは実際私が演じて散々な目に遭ったからだ(笑)
当時の自分に客観性がいかになかったかが痛感される。若いころ主観ばかりで演技をしていた自分を顕微鏡で手術するように演技指導してもらったのを未だに覚えている。
とくにボリフェルトのような戦争を題材に扱う物の多くの日本を含む優秀な戯曲は
その悲劇性だけに囚われず【客観性】と【主観性】それに対するリアリズム、リリシズム、近年ではナチュラリズムと表現手法が増え、多様化している。この稽古で百回くらい言われたシンプルで大切な事は『本が要求している所はそれに合わせて役作りをする』という事だ。逆に言えばいい戯曲じゃないと役者に迷惑がかかるという事。【新撰組伝~時ヲ破壊セシ者達~】のオーディションも一週間を切った。良い台本。嗚呼、恐ろしい。
○エチュード12『盲導犬』 作:唐十郎
■今回は台詞の音色が多様だったのでノートそのまま写メりました。見づらくてすみません。盲導犬は蜷川さんが尊敬する唐十郎さんの代表作というのもあり、台詞の音色や戯曲上の特殊な部分はきちんと伝えなければと思いあえてそのまま掲載いたしました。かつては木村拓哉さんもフーテン役を演じられました。『台詞が兎に角美しい』蜷川さんもそう言っておられました。
○エチュード11『はだしの青春』 作:宮本研
『何もかもが中途半端』
『一見上手そうだけど成立してない!全部フリになってるよ!リアルじゃない!』
『シチュエーション!徹底性がない、部屋の設定、たたみの部屋だけになってしまってるよ!』
『貧しさを出す道具が少なすぎる!貧しさのデティール!』
『袋!音出すの!?出さないならイノセントにさ!黙ってあけなきゃいけない心理!音出して気づかせようとするならしないと!』
『サブテクスト!内面!』
『目線のもって行き方!映画みろ!』
『揺れ!心の中のバイブレーションだって!』
『人間の二面性!本当と嘘!』
『仕草が甘い!宮本研(だけじゃなく)しぐさの重要性ってものが重要だろ!』
『テクストを正直に読み過ぎ!逆説性!逆に捉えて読んでみるんだよ!』
■宮本研は文学座、青年座など新劇系劇団に作品を提供していた。
勿論蜷川さんとは完全に畑が違う劇作家なのだが、その部分に触れる事を最小限にしながらも、演技をする上での共通で重要な事を的確に指摘されていた。
ここで重要なのは「サブテクスト」と「人間の二面性」とを時には一緒に、時には分けて考える事だと思う。
概念と実際の方法論との差異を様々な方法で埋める事も演劇の重要な一つの仕事だと捉える事が出来ると思うからである。
○エチュード10『バーサよりヨロシク』 作:テネシー・ウイリアムズ
『Tウィリアムズのアメリカ特有のものないとダメ』
『地方出身の差を出さないと!』
『その役を信じられるかどうか!』
『セントラルパークとか俺達じゃわかりにくい』
『国が違うと文化も違うじゃない。色んな人がいる。例えばイギリス国内でもわざとナマリを治さなかったりするんだ。人種も大切。アーノルドウェスカーの調理場だとキッチン内で人種差別が起こる』
『生活に根差した匂い!』
『コールディはもっと老けてるぞ!』
『台詞の音!最近の奴は台詞の語尾が半音ズレてて相手にかからないんだよ!世の中半音になってきてる!』
『作品はウィリアムズ本人に寄せすぎてんだ』
『スタニスラフスキーシステムの貫通コード!役が一貫してやってる行動の見通し!現在の自分を描け!』
『台詞!あの手この手でいかないと生活感リアリズムが出ないよ!成り立たないぞ!』
■「欲望という名の電車」(02.05.11. シアターコクーン 演出:蜷川幸雄 ブランチ・デュボア/大竹しのぶ ステラ・コワルスキー/寺島しのぶ スタンリー・コワルスキー/堤真一) でもそうであるが、この日のポイントは何といっても「生活感リアリズム」だった。
『あの手この手で行かないと成立しないぞ!』という何回もの蜷川さんの声は、役者をアジテーションするだけでなく、自らをも追い込みながら、かつ顕微鏡を使って手術をするような緻密さでダメ出しをされていた。
そしてそれは「現代の僕達にしか表現できない何か」へと変わっていくのだった。
○エチュード9『グリークス』
『これドラマ、ムズイんだよなぁ』
『ギリシャ悲劇が出来たら一流なんだよ』
『(ギリシャ悲劇は)憎悪が!対立が!抑圧がむき出しじゃないと!日本人だとここが弱いんだ!最近の若い奴のある種の倦怠感じゃ太刀打ちできないって!』
『生活環境!日差しもないし木も生えてないんだぜ!神殿には日陰になるところが何処にもないんだよ』
『嘘つき!だから憎悪が嘘なんだって!やってる事がニセモノ!気魄がないよ!』
『舞台もエチュードもノッケの3分が勝負なんだ』
『寺島しのぶの凄い所は本当に平幹二郎さん演じるアガメムノンを愛しながらも愛情と憎悪が屈折している所なんだ!』
『クリュタイムネストラ!甘い!志も態度も徹底性がない!この役はさ、女としての生き方VS男の生き方、女の論理VS男の論理が見えてこないとダメなんだよ!疑似化して演じちゃダメ!』
『もっと世界レベルの屈折を抱えろよ!欲望も何もかも小さいって!』
『台詞の裏には必ず意味があるんだ』
『いい演技をしたければ感覚(心や五感)+分析(戯曲読解、見せ方や性格付けなど様々)を同時に行い最終的に消すんだ』
『屈折=現代社会、そういう俳優は生き残る』
『1時間でこれだけ変わるんだもんな、大したもんだよ』
■【新撰組伝ークロノスー】のオーディションと稽古が近いせいか、ギリシャ悲劇のダメ出しを載せてみました。
昔文学座が挑戦したけどそれをはるかに超えたいとおっしゃられていました。
アガメムノンの娘のポリュクセネに尊敬する先輩、川本絢子さんが大健闘されていたのをとてもよく覚えています。
『グリークス』は古代ギリシャの作家エウリピデス、ホロメス、アイスキュロス、ソフォクレスが描いた様々な神々と人間の物語を、イギリスの演出家ジョン・バートンと翻訳家ケネス・カヴァンダーが一本の壮大な演劇とした作品。
この作品で蜷川さんは紀伊国屋演劇賞と第8回読売演劇大賞を受賞いたしました。
シェイクスピアとギリシャ悲劇の時の稽古場は、いい意味で世界レベルな、何かしらがいつも生まれては作品をよりよくするような、神聖で洗練された場所でした。そういう稽古場、やっぱり大切ですよね。
○エチュード8『血の婚礼』 作:清水邦夫
『セットが悪い。まずは路地の設定の仕方なんだよ』→
『閉鎖的な少年のしゃべり方!人馴れしてないの!劇作家の資質、人にも物にもなるべくなら巻き込まれたくないんだって!』
『トランシーバーの向こうに相手は居ないんだよ!でもそれを逆手にとって演技で相手が居ると客に信じ込ませるんだ!』
『似ているという所!二人で同時にうずくまったりして共通点をだせば?こういう所 演技のしどころだろ!戯曲を読む力があれば出来るんだって!センスセンス!』
『妥協すんなって!リアリティの追及に妥協しちゃだめだよ!』
■蜷川さんのセットは美しくリアルな場合とシンプルに抽象的な場合がある。
清水邦夫さんの戯曲は事件や時代が入っている物が多いからリアルに傾く事が多い。
しかし自然主義的(リアリズム)のふり幅を戯曲を読解して何処にもっていくのか、また、だから舞台セットや美術、役者の演技、衣装、照明、音響、メイクに至るまでをどうするのかという事が大変大切になってくる。
戯曲読解は役者だけではなく全員に必要であり、その一人一人をアジテーション(扇動)する事も演出家の重要な役割の一つなのだと教えてくれたのも蜷川さんだ。
○エチュード7『五千回の生死』 作:宮本輝
『これは現代の寓話劇』
『寓話劇はまずどうやって自分たちの心にリアリティーを作るかなんだよ!』
『始めの親近感!嘘くさくてはダメ』
『なぜ自転車に乗るか、一つ一つのアクションに客が納得する説得力を持たせないと!』
『テクストを見て俳優が説得力を持たす、そしていざ現実でどうするか』
『貧しいから信じるんだよ!』
『文学的教養をもっと持って演技の必然を作り出す事が不可欠』
『ゴットファーザー見ろよ!』
『木下順二の夕鶴で坂東玉三郎は成功したけど野田は失敗しただろ!』
『リアリティ!ブラットピットのファイトクラブ!見ろよそういう優れた作品!』
■何も戯曲だけが戯曲ではない。村上春樹や村上龍、そして宮本輝など優れた小説を芝居にする事も蜷川カンパニーならではの特色だった。
今まで「昭和歌謡大全集」「海辺のカフカ」等大劇場で上演されてきたが、実はエチュードでは上記以外にも様々な小説の舞台化がされてきた。
演者は書かれた台詞だけでなく、ト書きやサブテクスト、時には補足のようなセリフを相手役と相談しながら付けたしたり省いたりした。
今思えばそういう経験が今日の活動を支えている気もする。
『良い相手役を口説き落せるかどうか(エチュードに誘えるかどうか)も役者の実力のうちの一つなんだよ!』
あのベニサンピットの熱い屋上で言われた言葉、夏に向かうにつれいつも脳裏に蘇る。
○エチュード6『かもめ』 作:チェーホフ
『内面に何か抱えろぉぉ!それがエネルギーになるんじゃないか!』
『自分を追いつめろぉ!天才はやってんだよぉ!』
『姿勢!屈折を出せ屈折を!石原みたいにスクエアにやんな!自分をどうやって崩すかなんだよ!』
『雨に濡れる演技が出来てない。下手な俳優は濡れろ!』
『雨の濡れ具合は?雨だけでなく風は?』
『ニーナはトリゴーリンが居るから来たんだから偶然を装わないと。混乱したから動けるんだよ!』
『嵐の描写は登場人物の心の投影なんだ』
『トリゴーリンとの才能の差!自己嫌悪がまるでないじゃないか!』
「トレープレフがいたあの日」『過去が懐かしいんだよ、チェーホフ!チェーホフ!』
『椅子の座り方、ボタンのかけ方、生活様式が違うだろ、水の扱い一つ違う、おい、セリフ歌うな、音、セリフの音、ゆっくり、感じ込めろよ』
「2,3日寝てない」『嘘つき!実際朝まで起きてみろよ!』
「疲れ果てて…」『疲れてみろよ!』
『できる事はやってみろよ!神経を張り巡らす緊張がないんだよ!そういう生活を実際してみろよ!自分の生活をくぐらせとかないと演技なんか出来ないだろ!こなすんじゃなくて体験しろよ!ロバート・デニーロは実際タクシードライバーやってただろ、実体験+イメージで埋められるんだから!』
『if!スタニスラフスキーシステム!もしも自分が~だったらって常に自分に聞けって!』
『台詞の裏にあるもの、気持ち、行動、その他!埋めないと!サブテクスト!』
『もっと心理をバイブレーションさせてから抑え込めって!もっと興奮!エキセントリックに!』
『そこん所!その瞬間!何を見せたいか人がその時どうするかもっと多様性がないと!さりげない所が勝負所だったりもするんだから!』
『最近の(若い)奴は内面に関係なく表情にバリアをすんだよ。』
「誰も来やしない」『ニーナかアルカージナを見て判る台詞だよ!』
『一般論でやんな!』
『自分なりにチェーホフを攻略して来てから見せろって、チェーホフは二重の心理の物語なんだから』
『せめてドラマにしろって、作用と反作用』
■この日は蜷川さんのチェーホフの戯曲分析力と演技術の博識さに恐れ入った日だった。
スタニスラフスキー・システムの【if】や【サブテクスト】等具体的なものから、雨の描写、細かい仕草、生活様式に至るまですべてを細かく分析、分解し一つに再構築する。
この数年後、香川照之さんの【桜の園】を演出されるのだけど、この時よりも更に進化している演出にただただ唖然とした記憶がある。
もちろん評判はとてもよかった。いつか別世界カンパニーでもこのような芝居を打てたらいいな、と。
○エチュード5『僕らが非常の大河を下るとき』 作:清水邦夫
『これは時代背景が凄く入っている時事作品だから中々そこが難しいんだよな』
『赤軍の秘密殺人の時代に与えたshock!』
弟「頼むから姿を見せてくれよ!」
『敵が見えない時代への爆発の象徴の台詞だよ!』
『違うよ!!兄は弟にコンプレックス持ってんだよぉ!関係性!関係性!ツメが甘いって!』
『ランボー読めって!台詞や描写の中に彼の地獄の季節の一節が入ってるだろ!』
『もっと自分にしかない表現を追求しなきゃ!』
『顔だけでなく身体の表情!そして使い方!振り向いて台詞言うのか、同時か、こういう所の演技の選択をはっきり!』
『もっと自分に足りない(知らない)ものを探して今の自分を見つめ直せ!』
『出来ない事を恥じるな!』
『台詞の裏には必ず意味があるはずなんだ!』
『感覚+分析を同時に行って最終的には消すんだよ!』
■清水邦夫さんの戯曲にはやはり特別な思い入れがあった。まずは時代描写。劇作の背景にどういう時代や文化、思想、事件があるのか。
そしてそれがどういう手法で描かれたテクストなのか。それを踏まえたうえで最後に俳優は具体的にどういう演技の方法に向かうべきなのか。
スタニスラフスキーシステムを基本に様々な応用が散りばめられたダメ出しに鳥肌だらけだった。この日必ず観ておけと言われたものを列挙しておく。
「アントナン・アルトー全集」「スタニスラフスキーシステム」「俳優の仕事(千田是也)」
「にごり江」「どん底(ゴーリキー)」「マクベス」黒沢明監督作品の映画全部。
○エチュード4『おーい助けてくれ』 作:ウィリアム・サローヤン
「おーい助けてくれ」『諦めてたんだよ!』
『戯曲全体で言えば、世界を檻、厚い壁で囲まれた若者たちの物語なんだよ!』
「なぁに」『この台詞は話のきっかけを作りたいんだ!』
「ケティかい?」『リフレインしている間に助かる方法を考えているんだ。統一してるのは助かりたい!』
『エミリーは、二重性をどうやって出すか!その為には内容を読みこなすんだよ!』
『イメージイメージ!それを肉体で表現!』『口で言っている事と本音は違うだろ!』
「おーい」ずっと座っている→諦める→スプーンを鳴らす『この行動は諦めないからやってるのぉ』
「おーーーーーーい!」『本のレベルはもっと高いだろ!最後だけ大きく叫ぶんだよ!魂の叫び!世界中の孤独を背負い救済を求める悲痛の叫びを出さなきゃ!』
『のっけの動作!のっけの動作!寝っ転がってんのか、座ってんのか!中途半端じゃ駄目駄目!もう一回!(素早く手を叩く)』
『もっともっとデリケートに!反応を伺いながら!』
「なぁに」『ほらこういうとこはおいしい所、見せ所だよぉ!』
『本を読み取る能力や表現力は自分で見つけるんだよ!考えろ!演技をして考えるんだよ!世の中にそういう人がいるのかとか!自分の中にそれがあるかないかをさぁ!』
■蜷川さんは演出する俳優や戯曲のレベルに身体を合わせる為、人差し指と中指を小刻みに動かしテンションを上げていた。
故・如月小春さんも本読み時、ペンで台詞の音を取っていた。どちらのクセもいつの間にか私に写ってしまった。
『全世界に向かって大きく魂で叫ぶんだよ!』机を蹴飛ばして激高しながらも言ってくれたあの言葉は、今も昨日の事の様に心に刻まれている。
○エチュード3『女中たち』 作:ジャン・ジュネ
『読むぶんには面白いがテクストが悪い。ブルジョア人の観点が俺たち日本人じゃ出しにくい。衣装だけじゃダメ。日本人はあらかた失敗するよ。もっと観念的なもんじゃねーやつやれよ、もっと自分の感性に合っているもの!こういう作品は行ける所、たどり着く所が決まっちゃってるんだよ』
ブルジョア人(中産階級の事であり、特に17 - 19世紀においては革命の主体になりうるほどの数と広がりを持つ裕福な階層)とプロレタリア人(賃金労働者のことをいい、そもそもは資本主義の経営者に搾取されて苦しい生活をおくる労働者)は難しい。
日本人には判らないヨーロッパの歴史、風土、文化的価値観がある。
更にジュネはやってきた事の凄さがある。←同性愛者、うそつき、外国人部隊、刑務所にいた(この時、泥棒日記を書いた)、ジュネは台詞が綺麗。
『これは日本に置き換えられない。俺がやったNINAGAWAマクベスは成功した。見た目(ビジュアル)も感覚も日本に置き換えられた。そうする事で日本人が本当の意味で納得できる。台詞については変えない。最近は日本にも西洋文化が入ってきているから対処できる。』
■無茶苦茶な生活をしてきたジュネだが、ジャン・コクトーに認められてからというもの次々と名作を出版、認められ、最後には政治活動までした。
この日はさすが世界で戦っていらっしゃるな、と、改めて尊敬した。
○エチュード2『喜びと孤独の衝動』 作:ジョン・パトリック・シャンリー
『俺メルヘン嫌いなんだよ』
『アメリカの劇作家なので裸足では演じてはいけない。台本を超えるオリジナリティーがない。どんな登場人物でも、この登場人物ならどうするかを細かく考える事。また、どういう演技を選択すればシチュエーションを選択する事が出来るのか。手の癖が気になるならポケットに手を入れてしまえ!体の開き方、向きによって同感や反抗等を表すんだよ!語尾の扱い方!ビシッと止める強調。遠くを見るときテクニック!ちょっとカーブして見ると効果的にいくよ。』
『態度は正直に表現するのではなくて逆にするとより深みが出る』
オーディションの時は短い間にシチュエーションを伝えるのが大事。登場人物二人の価値観の違いを出す。←Keypoint!
『もし俺が演出するんだったら、岸部は上手か下手どちらかを出っ張らせて演技を協調させるな』
■この日は台詞の音色よりもビジュアルに対するダメが多かった。
かつて新劇がシェイクスピアを演じる時理由もなく縦横に動く事を非常に懸念され、
相当細かく動作のダメ出しをしてくれた。 クリックで拡大→
○エチュード1『ハムレット』冒頭のシーン 作:W.シェイクスピア
行動での理由作りが大切!
台詞の概念「誰だ!」『お前は何者だ!ハムレットは何者だ!一体何者だ!って意味なんだよ』
中世から続く文化的恐怖心。一概にそう言えないが、セリフを呟くと主役になってしまう。
「誰だ!」『叫べ!台詞が間抜けになるな!短く切り過ぎるな!』
『なぜ→なぜ→なぜ!音を上げてけ!フレーズの取り方!強調のリズムで加速度を作れ!異変!異変!ハムレットの父の亡霊が出てきたらすでに異変なんだよぉ!』
『シチュエーションを成り立たせてやれ!徹底性がないよ!見張りなのだから、何処から何が来てもいいように対処!カッコつけるな!リアルにやれ!結構難しいんだぞ!』
「12時を打つのを」『一回周りを気にして』
「そこに居るのはホレーショーか」この台詞を出すにはホレーショーは元よりマーセラスからも離れる事。ホレーショーは全然信じていないのに来た←Keypoint!
『どんな作品でも最初は忠実に作り行動の裏付けを大切に。数々の台詞の音の音色をしっかり。実物や、他の芝居と自分達がやろうとしているものの比較、差を見据える事。演出・役者の本の読み込みが薄いと関係ない事をやりたがるから注意しろ。』
■最初の「誰だ!名を名乗れ!答えろ!」のセリフだけで一時間かかった気がする。
シェイクスピアだけでなく全てのテクストは戯曲読解からと厳しく叩きこまれた日だった。
言ノ葉集は、随時更新していきます。